眠れない夜の随想

  「厭世さんのブログ記事は全部読みました」


  こんなことを言われたのは初めてで、ついついまたいつもの悪い癖が出た。「豚もおだてりゃ木に登る」僕は幾度木登りすれば気が済むのだろう。大した文量でないにしても、このブログの記事をすべて読もうだなんてよほどどうかしている。僕はいつだってあとから気づき、後悔する羽目になる。僕の読みづらい癖のある文体と、その曖昧でいい加減な筆致には、呆れかえるといった反応が正常だ。僕だからこそ、僕の連続性を確かめるために、たまには自分の書いた文章の読者になるが、時折その文章技巧の稚拙さと陳腐で一部グロテスクな内容に厭気が差すことが多い。


  陥穽だった。筒井康隆に着目していながら、これだけ「作者」と「読者」について考察していながら、どうしてこんな基礎中の基礎を見落としていたのか。やはりどうもまだアタマの調子がおかしいようである。「作者」は書く。「読者」は「作者」の書いた「テクスト」を読み、様々に解釈する。簡単に言えば、こうした作業をプロとして行うのが「文芸批評家」の本分であり、それを支える考証を、同じくプロとして行うのが「文学研究者」の主たる仕事だろう。書くまでもないことだが、「国語」の授業で作者の意図や、固定された解釈を、現代人はどれだけ選ばされ続けてきただろう。考えてみれば、カンタンにすぎる。「読者」の「テクスト」へのアプローチは多種多様(文学理論の入門書の目次を見てみるといい)に考えられ、それぞれ異なる。面倒なので詳述はしないが、「<読み>の正解を一つだと考えないこと」こそ、「文学」の蠱惑的な魅力であり、弁慶の泣き所であるとひとまず言えよう。「作者の意図」なんてものはまず分かり得ない(それこそ私たちが思考のすべてを完璧に伝達する手段がない上に、そんなものができれば私たちヒトは滅ぶ。)と言っていい。もういくらでも繰り返されてきた言説なので、自分のヘタクソな説明をここですることには吐き気が止まらないのだが、「厭世詩家と女性」によって書かれた文章から、<今ここ>で苦悩と不安に苛まれつつも呑気にあぐらをかいている(この叙述だって真実であるかどうか)この「僕」の実相を、そのままに見ることは誰にもできない。


  僕はエゴイストだ。僕以外に僕は何も信じてはいない。未だにホントウの意味での他者を見出し得ない。確かそんな旨の自殺旅行をするだとかいった雑な遺書をポツネンと残し、一泊二日で帰ってきた小心者の「厭ナントカ」(?)そんな奴もいたりいなかったり。そうしてその孤立した自己を、表象でなく(あり得ないことだが)、<わかってもらえる都合の良い存在>を求めさすらう阿呆が僕だったはずである。このブログの初めの方の記事には、絵空事であるが、僕の夢見たことが書いてある。それらが完全に達意できたと無意識に思い込み、ホイホイ甘い餌に釣られて、今回もまたトンチキなドタバタ劇を繰り広げた。


  「どうせ今回の件もブログにいつか書くのだろう」「10月下旬あたりじゃないか?」「いやネタがなくなったら書くに違いない」などと僕を馬鹿にしてくる良き友人たちがいるので、敢えて胸の内にしまっておいて、代わりにこんな雑駁な随想を見切り発車で書き出した。今は他にやりたいこともあるし。つまるところは、どうやったって、「個」が「個」である限り、ミスコミニュケーション・ディスコミュニケーションは、生じざるを得ない。「個の確立」にこだわる僕の第二のアポリアがこれだ。しかしながら、この問題はそう悲観することもない。「個」の特殊性は、「個」が「全体」へ完全に包摂されない限りは、あらゆる可能性の源泉となってくれるだろう。


  ものぐさスイッチが入ったので、そろそろこの駄文を締めにかかると、僕は自己において肝要な発見や反省をたびたび忘れる。どうもこのポンコツっぷりだけは直りそうにない。今日訪ねてきた元同居人の発言から引用するのが癪に障るが、やむを得まい。「孤立せよ・・・・・・!」(福本信行『無頼伝 涯』の箴言。最近読み返したにも関わらず、すっかりこの境地を、沈殿させていた。裏をかいてやれば「self help」、「help!」だなんて叫んでいる暇があったら、中村正直訳『西国立志編』でも読めば(だがとても読むのに骨が折れるので何か良い代替テクストはないものか......なにぶん自分の勉強のためでなければ読まなかった類いの本でもあるし......)、生きる気力も湧いてくるというものだ。なんでもいい。思考を柔軟に。ノウミソなんかスポンジであれ。すべてを牽強付会、我田引水、恣意的に結びつけちまえ! と、浅田彰『逃走論』チック(?)なロジックに収斂していってしまったわけだが、結局これを噛み砕き、三行にできず、相も変わらずまどろっこしいことばかり考えていたことが、今回の僕の敗北である。「否! まだ負けてはいない! 変化しないこと即ち「無」こそが真の敗北であり、これは絶対に必要なプログラムの一部なのだ!」 と、またテキトーにじい(示威/自慰)したところで、なにか良い美辞麗句が出てくればいいものだが、あいにく本日、未熟者であるからして、うーん、そうだなあ、「いのち短し恋せよヒト」(2018年風?アレンジ?)という具合にしておこうか。ところで、不意に招かれざる客は厭世ハウスにたくさん闖入してくるが、可及的火急的速やかに欲しい眠気は一向に訪わない。薬ももうない。いやはや。

上京してのち

  上京してからの様々は最早思い出したくないことばかりだし、今の僕はすっかり弱り切ってしまっている。その間の日常を記録した2代目厭世詩家と女性(@pkd_straysheep2)も永久凍結されてしまった。なので、もう朧となった端々、記憶を、内奥から呼び起こす端緒にするために、備忘録として簡潔に記す。


3月

  希望と不安に満ち満ちていた。長年の付き合いのフォロワーのオタクとルームシェアしていた。まあ一ヶ月を俟たずに奴が出て行ったんだが。そういえば奴は僕に13万借金があるのだが、何も言ってこない。金に頓着したくないので、今後も督促はしないことにする。彼の良心に委ねよう。

  ところで、こんなことを書くと、彼にまた怒られるし、面倒な堂々巡りの反駁がくるので適当に煙に巻こうと思うが、一応書く。表向きは彼が僕の生活能力の酷さに呆れて、出て行ったということになっている。しかし、僕の認識は異なっている。彼とは昔からよく口論もとい議論になる。人間、神、世界、存在、言葉、性、抽象的であれば何でもいい。彼は良く「お前は他人の話を聞かない。すぐ遮り、自分の話ばかりする」などと指弾してくるが、これは見当はずれで、単に彼のプライドの拠り所とする「頭の良さ」(僕としてはクソどうでもいい)に含まれる「頭の回転の速さ」と通常判断される、発話の数が僕の方が約4倍程度多いだけのことである。それをウダウダ悩み、ストレスを溜め、皮肉、当てこすり、罵詈雑言で攻撃してくるんだからたまったもんじゃない。僕も僕でぐうたら暮らし、彼の小言をいい加減にうっちゃってしまうから、互いにますます腹が立つ。というわけで、破綻は遅かれ早かれ別のパターンで訪れただろう。きっかけとなったのは、僕が酒と女と薬でバグり暴れた「厭世ハウス乱闘事件」なのだけれども。

  大学院も始まっていないというのに、この一ヶ月は特に消耗した。彼もまた。彼は今は別のフォロワーのシェアハウスに移り、順調(?)に生活しているようだ。毎日のようにTwitterで絡んでくるが適当にあしらっている。


4月

  特に書くこともない。疾風怒濤の3月を終え、幾分か大人になったつもりでいた。実は3月の女バグりは、関係各位に迷惑がかかるから詳述しないが、矢印がとんでもない数飛び交い、僕も(一方的に飛ばす方だが)竜巻でもみくちゃにされた。大学院は始まったが、僕としては珍しく順調なスタートが切れ、院内にも特に問題なく馴染むことができた。大学院というのは一種特殊なところで、奇人変人の見世物小屋なので、悪目立ちということが、良くも悪くもできない。個性は反転し没個性となる。しかしながら、新生活というのはいつもエナジーを消耗するもので、この頃処方薬のルネスタ睡眠導入剤)が海外輸入できることを知り、こいつに溺れてしまった。寝ると心が軽くなるので1ヶ月で購入分の3mg(処方される一日の最大量)の錠剤100錠がいつのまにか消えていた。クスリの一番厄介なところは、濫用すると耐性がつくことだ。これより決まった時間に寝られなくなり、今も自分に合った睡眠導入剤を見つけられず、不規則な生活を強いられとても後悔している。

  これは蛇足だがこの頃ホテヘルで淋病を移された。ある日、排尿時に白い膿(淋病だと黄色の場合もあるらしい)がドロッと出るようになり、尿道に痛みが走った。焦って泌尿器科に駆け込んだ。幸いにも症状は軽く1週間で根治した。ん? これ5月だっけ? まあいいや。


5月

  元同居人のオタクが出て行ってから、厭世ハウスには、部屋が一つ余っていた。もう散々怒られたし、僕の中でも少しは整理がついたので、やや事情を書くが、フォロワーの女の子が一人居候することになった。4月の終わり頃から3週間、誰にも知らせずに同棲していた。彼女は双極性2型(いわゆる躁鬱病の重い方)だった。希死念慮があり、ODは日常茶飯事だった。しかも酒を覚え危険な状態にあった。幾人か親しい人には告げたが、公(?)には初めて告白する。僕は間男だった。彼女との生活は3週間続いた。彼女は別の場所で、新生活を始めるために厭世ハウスを出た。笑顔で別れた。それが彼女を見た最期になった。7月の項に書く。


6月

  この辺りから記憶が混濁している。大学院は4、5月こそ張り切って勉強していたが、次第にポスト構造主義的な言語不安に陥り、苦しくなった。頭が一瞬間も休まらず、眠らない回遊魚のようだった。5月末に初めての演習発表を乗り切り、本来ならここから自信をつけられたはずだ。だが相も変わらず寂しかった。とにかく6月に僕の鬱病は悪化し始め、生活すらおぼつかずに、ただ恋愛だけを夢見ながら、学問という名の悪夢と奮戦していたと思う。色々なトラブルを巻き起こした気がするが、よく思い出せない。


7月

  終わりの月だった。すべてを投げ出した。終生この夏の虚脱感は忘れられないだろう。5月に生活を共にしたあの子が死んだ。正確には5月の下旬、厭世ハウスを出て一人暮らしを始めて3週間経った頃にあったことらしい。自殺だった。詳しいことはあまり知らない。僕は彼女の過去も本当も知らなかった。ただ僕と暮らした3週間だけを知っている。だから悲劇の主人公ぶる資格もないし、第一彼女はそんなことは望まないだろう。死について考えた。苟もこの時期の指導教授の演習発表の題材のタイトルが「死者たちの語り」だった。気がどうにかなりそうだった。僕の中で一応の弔いはした。なのでぐだぐだ彼女の思い出に浸っても仕方がない。墓は知らない。僕は無神論者で宗教は持っていないし、究極的には自分しか信じていない。だから誰にどう思われようがこれで良い。ぽっかり空いた大穴は今も埋められずにいるし、これからもそうだろう。


8月

  終わってもないのに振り返るのもおかしなことだが、凍結されたおかげで16日以前の記録がない。簡単にいこう。7月末の演習発表を投げた。原因は自殺したあの子を忘れるため、他の女の子にちょっかいをかけ、双方傷つけ合ったのが、ちょうどその時期と合致したからだ。上京からのことが積もり積もって、いや、むしろ24年間の僕の生きてきた人生のやり切れなさが積もり積もって、久々に希死念慮が僕に帰ってきた。笑ってしまうぐらい雑な遺書を書き、衝動的に家を出た。24になる8/11まで旅に出ようと思った。不幸にも(幸いにも?)、酷暑に、弱り切った心と身体は耐えきれずに、ビジネスホテルに駆け込み、一晩泊まって帰ってきてしまった。ついに東京からさえ出られなかった。別れ際に自殺した子がプレゼントしてくれた腕時計をはめていた。何度も何度も話しかけてみた。僕は自殺しようとしたことは初めてではなかったが、やりおおせたことはない。彼女がどんな気持ちで、どうやって死んでいったか。想像することしかできない。人と人とは決して分かり合えないし、言葉は僕らのやるせなさを分かち合うにはあまりに心許ない。僕の6月頃陥った厭世感は、こうして、真に僕の血肉となった。頭でわかるのとしみじみ感じ入ることは違う。だなんて、脳科学者にバカにされそうだが、文学者はこうであってもいい。


  そろそろ書き疲れたので締めよう。鬱病は悪化し、睡眠障害も酷いが、どうにかこうにか生きている。まだ牙は折れてはいない。もともといい加減に書こうとの思いつきで、スマホに打ち込み始めたものの、興が乗り長く書き過ぎた。推敲もろくすっぽしなかった。書かなかった大切な出来事もたくさんある。多分この文章を読み返せば僕の頭の中に蘇ってくるだろうから、まあいいとしよう。


  上京してのち、最大の収穫は「Let It Be」が刺さるようになったことだ。と書くとまたミーハーだの単純だのボロクソに貶されそうだが、言いたい奴には言わせておけばいい、それも含めて、今ここに在る。さて、これから先か。どうなることやら。気が重いや。

フォロワーが自殺したらしい

 フォロワーが自殺したらしい。僕とはゆかりの深い人だった。複雑な事情があるので、以後仮名Aとする。一つには死者を冒涜したくないからである。僕はAのすべてを知る由もない。Aはどちらかといえば寡黙だったし、語りたくない過去もたくさんあったからだろうからだ。

 今僕は少し酒を飲んだ。懇意にしていた人物が死んだにも関わらず、僕の心にほとんど波風は立っていない。Aは恨むだろうか。せめてもの献杯をした。おまけに精神安定剤のODに併せて睡眠薬を飲んでこの文章を書いている。Aはきっと自分の消失を知られたくないだろう、だけれども僕は記録したい。完全なるエゴのなせる業だ。

 今日僕はAの亡くなったことを知った。形式的かもしれないが、Aには安らかに眠ってほしい。お疲れ様と言いたい。Aは特定されることを望まないであろうから、具象的なことは書かず、抽象的に僕なりの鎮魂をしたい。

 私事だが、2018年3月はトラブル続きだった。死んでしまおうと何度も思った。4月になってAとの交流が始まった。僕が生き延びられたのはAのおかげであったといっても過言ではない。Aは気遣いのできるとても良い人だった。今日は池袋で飲んだ。池袋ウエストゲートパークを横切る凡夫の群れに僕は殺意を向けた。Aが自死を選び、くだらない畜群どもはなぜ死なないのだろうと思った。Aは誕生日が近いので誕生日会をやってほしいと言った。でもその前に死んでしまった。Aは死亡時期が定かではないので(恐らく5月下旬だと思うが)、断定はできないが21歳で逝去した。

 死とはなんだろうか? 人は生まれたからには必ずいずれ訪れるものだ。絶対的であり、誰しも逃れることができない。先に謝っておく。昨日の午前3時過ぎ、フォロワーの女の子が号泣して、「生きることが難しい」と通話をかけてきた。僕は一時間半彼女の話を聞き、慰めた。彼女には死なないでほしい。生きづらいのだろうが。それでも。しかしAは死んでしまった。しかも自らを殺した(と推定される)。

 僕がAの死を知ったのは今日のことだ。もう二ヶ月近く前にAは死んでいたことになる。Aは憤るかもしれないが、僕はあまり動揺しなかった。Aの死の直前(と思われる時期)に連絡がとれなくなっていたからだ。Aは僕と交流のあった頃からAは強い希死念慮を持ち、度々自殺企図をしていた。覚悟が僕の中でできていたからかもしれない。Aの遺品を二つ持っている。僕は生涯保管するつもりだ。Aはそれを望まないかもしれないが、僕は捨て去ることができない。赦してほしい。「死人に口なし」という言葉がある。だからAは赦せないだろう。

 Aの身元がわからない限りで書くと宣言した。だから具体のエピソードは極力控える。だが、印象に残っていることを一つ書く。向精神剤ジャンキーのフォロワーがいた。Aに紹介したらたちまち仲良くなった。これから書くエピソードは現実とも空想と捉えてほしい。僕の家で三人でロヒスニをした。ロヒスニとはロヒプノールという向精神薬を小型のストローで鼻から吸引することだ。5倍キマるとの都市伝説がある。汚い話だが青い鼻くそがしばらく出る。とても気持ちがよくなるのだ。そんなことを思い出す。

 AにはOD癖があった。躁鬱病だった。死にたがりだった。懸命に生きようとしていた。しかし地理的に僕らの元から去って結果的には自決した。止められなかった。あまり多くを語りたくない。というのも僕の中で受け止めきれていないからだ。今は悲しいとさえ思えない。僕には冷たい血が流れているのかもしれない。父母が亡くなっても泣けなかったら僕も死のうと思う。

 

PS. Aのこと1/4は僕が殺した。引き止められたはずだ。それに僕は君をたくさん傷つけた。君は優しいから「そんなことないです!」ってきっと言うんだろうな。別に悲劇の主人公になりたいからそんなことを言っているわけではない。Aと親交を結んだ時点でAは過去にほとんど押しつぶされそうな状態だった。僕がAを殺しただなんて言うのは傲慢に過ぎるだろう。本当のところはわからない。ただAのことを忘れたくはない。そして月並みになる。最後に。ご冥福を祈りたい。つらかったんだね、わかってあげられなくてほんとうにごめん。もっとはなしたかった。

                                厭世詩家と女性

 

現代社会私見覚書

 逸脱がしたい。「逸脱」と言うと否定的なニュアンスを含意しているように思うが、昔の僕の意識下では「特別でありたい」だった気もする。もう少し前の社会評論なんて見てみると、それは「記号消費による差異化」の問題に近いかもしれない。誰しも自分の生の無意味さを認めたくない。だからこそ特殊でありたい。なにか少しでもいい。他の平凡人を出し抜いてやりたい。そう考えるのはごく自然なことのように思う。「内面化された他者」だなんて言葉も前述の社会評論では聞いたかもしれないが、現在SNS社会においては他者の視線は現前している。それさえも自意識過剰だと言ってしまえばそれで終わりだが、そうなるとこれはもはや現代社会日本の病理である。少し古いが三木清の『人生論ノート』を読んだ。三木清に言わせれば「虚栄」になるかもしれない。「アイデンティティ」50年代だったか60年代だったかにエリクソンの提唱した概念が今復活してきているように思える。「アイデンティティ」は本来「これでいいのだ」だった気がするが、現在の「アイデンティティ」は「これでいいよね?」だ。最初に「逸脱」といった格好つけた言葉を吐いたが、内実はこれである。どんどん人々の意識が「寛容」やら「多様性」の名の下に“毒抜きした”形でかつて「アングラ」や「サブカル」と呼ばれ、差別されてきたものを包摂する。都市を見ればわかりやすい。どこも均質化され、トポスなんて歴史の中にしか残滓でしか見出しようがない。伊藤計劃が『ハーモニー』の中で描いた白を基調にした都市像なんてのは素晴らしい皮肉だ。本来何かを訴えようとしていたネオンの光は、過剰さゆえにその意義をほとんど失った。現代社会は僕の言葉でパラフレーズすれば「意味の氾濫」だ。しかしそれさえも古い話だ。いまさらポストモダンだとかポストモダニズムなんてのも何の新規性もない。2018年を生きる僕らにとって、空気と同じだ。だが死んだり終わったとも思えない。ネットサーフィンしてみれば、より徹底した形のカリカチュアがいくらでも見られる。「都市」と「電脳空間」は同じ論理、「空虚さを前提とする商業主義」の双生児だ。ノスタルジーになるが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』にあったストリートカルチャーは、遺物となってしまって、史跡として形を遺しているにすぎない。ヤクザや暴走族も身近でなくなってしまった。統計資料がどこかにあったので一度目を通してみるといい。PCの調子が悪いので後日加筆修正する。

文系院進を考えている人へ

  僕が某大学院に入ってから2ヶ月が経った。とりあえずなんとか追い出されずには済んだ。院ロンダだったのでかなりビビッていたのだが、雰囲気はイメージしていたものとは大差なかった。厳しくレベルは高いがついていけない程ではない。大学院について思うことを、ポンコツ学徒の視点から、雑なエッセイとして書ける範囲で書こうと思う。

 

  社会科学はともかく、人文学を院で学びたいという人たちはとち狂っていると形容しても誇張でもなんでもないような現在の社会状況において、それでも院進したい人はそれなりにいるようである。社会に出るまでのモラトリアムの延長、資格の取得(臨床心理士等)、あるいは教員志望者の給与UPのため、学識をもっとつけたかったり、アカポスに就きたかったり、ただ流されてという人や、留学生もたくさんいる......そうした人たちの一助となればと急に思い立ち筆を取った次第だ。

 

  タイトルで文系/理系と雑に分類したのは、僕が文系のしかも自分の研究科の自分の専門(明記しないのも読者の混乱を招きそうなので僕は日本近現代文学が専門だということを示しておく)のことしか正確には語り得ないといった限界があるからである。よってこの文章では理系のみなさんのことは書かずにおく(軽視・蔑視しているわけではないので誤解なきよう)。大学院ごとにカリキュラムや、制度、学生・教官のやる気やレベルに差異はあるだろうが、できるだけ包括的な一般論と、自己の経験を交えながら、後輩たちへのアドバイスができたらいいと思う。

 

  まず大学院に入るには、学士を持っていなければならない(合ってるよね?)。社会人入試や内部推薦などについてはよくわからない(比較的外部入試よりは難度が低いと聞く)。僕自身名古屋の方の大学から外部の人間として入ってきたので、まずその個人的な体験を語りたいと思う。僕の専門分野は、1.卒論(書けていない人はそれ準ずる論文)と願書(研究計画書のいる場合が多い)の提出 2.外国語のペーパーテスト(多分野では1科目で済まない場合が多い) 3.専門科目のペーパーテストまでが一次試験で、二次試験はこれから実際に教わる教授たちとの面接だった。外国語に自信のある学生ならまず外国語は問題無いと思う(僕のように院ロンダしなければ)。専門科目に関しては、問題の傾向を過去問(だいたいの院は無料で取り寄せできる)から探ることができるので、対策は立てやすいと思う(ただしいきなり出題形式が受験年からガラリと変わることもあるので注意)。これらで足切りされなければ、ようやく二次試験の面接にたどり着ける(一次試験の結果が出るまで3週間ほどかかる場合もあればその日に行う場合もある)。

 

  面接の思い出を語ろう。面接官の教授は確か4人いた。全員がこちらを睨みつけているように感じられとても緊張した。企業の圧迫面接とはこういうものなのだろうかと想像したりした。なにせこの業界では名の知れた大物研究者ばかりである。志望動機と研究計画をまず聞かれた。そして試験の結果への感想が述べられるのだが「君、英語の点数があまりに低すぎて、今日ここに呼ぶかどうか教授会にかけたんだよ」と言われた。その瞬間冷や汗が止まらなくなった。そこからは各教授から個別に専門的な質問が飛んだ。もう何を喋ったかもあまり思い出せないが、とにかく固有名をたくさん挙げ、口八丁手八丁で誤魔化したと記憶している。結局合格したから良かったのだが......(ちなみに3校受けて1校だけ運良くひっかっかった)合格通知はネットでしか見られないという形式だったが、半ば諦めていたので、自分の受験番号を見つけた時は、狂喜乱舞した。

 

  そうして、4月から大学院が本格的に始まった。僕の研究科では、修士を終えるためには32単位を取得しなければならない。学部生からしたら少なく思えるだろうが、一つ一つの講義演習の密度は想像を絶した。月〜木まで1〜3コマずつしか入れなかったのだが、このエッセイの執筆現在すでに満身創痍である。というのも一回の講義で、レジュメを何十枚と渡される。自分の勉強も併せて調べ物をせねばならず、僕の家にはすぐにレジュメの地層が出来上がった。演習発表は前期だけで、3本あり、その準備で毎日図書館通いをする羽目になった(と言っても現在まだ2本発表を残しており数本のレポートも学期末に書かなければならない)。読まなければならない本は日に日に増えていく。取捨選択と要領の良さの重要性を思い知らされた。理系院生に比べ、文系院生は楽というのは真っ赤な嘘である。いや実際に理系院生の方が忙しいかもしれないが、文系院生も生半可な覚悟で入れば必ず落伍すると思う。同期や留学生や先輩の意識の高さ、教授連の要求度の高さには、眼を見張るものがあり、改めて研究者になる法、いやそれ以前にこの環境でどうにかしがみついていく法からして、考えなければならなかった。僕は鬱病持ちなので、ことにきつかった。焦燥感と苛立ちから15kg痩せた。とにかく一日中勉強について考えなければ、よっぽどの天凛を持たぬ限りは、退学せざるを得ない。

 

  院生は学部生の延長では決してない。まったく別物である。さらに言えば、これはM(修士課程)の話で、D(博士課程)まで進むなら、並大抵のモチベーションではポッキリ折れてしまう。M2に上がればすぐに修論準備である。まとまった論文を3〜5つ書かなければならない。そこまで思いを巡らすと、胸が苦しくなってくるのだが、これはあくまで課程を終えるために必要な最低限のことだ。もちろん専門科目を深めることも肝要だが、多種多様な研究手法の体得、学際的な知の蓄積が、先に待ち受ける博士論文を書く上では必要不可欠であると感じる。先行研究を真似るだけでは、所詮そこまでだ。研究として価値のあるものの創造。それには技倆だけでなく、分野の制度を掴む必要がある。これもなかなか難しい。また博士課程に進むための試験の準備もしなければならない。もちろん院試よりも難易度は高い。

 

  ここでお金の話もしておく。ある非常勤講師から聞いた話では、M2D6を標準として、ようやく博士号が取れ非常勤講師に昇格できるらしい。つまりその間の学費・生活費をどうにかしなければならない。多くの院生たちは日々バイトをしている。僕はしばらくは親からの援助と奨学金で賄えそうだが、いずれ資産の寿命も尽きる。DCという助成制度もあるが審査は厳しく(学会発表、査読付き雑誌への寄稿などの業績も評価基準となる)ほとんどの人は貰うことが能わない。博士論文の執筆は(仮に博士課程に進めれば)、バイトをするのか一度就職するかは決めていないが、働きながらになるだろう。博士論文には査読がある。博士号はそう容易く手に入るものでもない。やれやれ不安は湯水のように溢れ出る。

 

  ここまで暗い話ばかりした。なので最後は希望のある話(現実と遊離したオプティミズムかもしれないが)をして締めたい。不満と不安を徒然なるままに書き散らしたが、なんだかんだでこの道を選んだことに僕は後悔はない。たくさんの発見があり、知の奔流で揉まれることで、日々自分が進化していると感じることができている。また愉快な仲間(もとい同志や戦友と呼んだ方が適切かもしれない)たちにも恵まれた。毎日とにかく疲労困憊だが、とても充実している。濃厚な一日一日を過ごせている。学問は、この誰もが、過剰な情報の氾濫に囲繞され、物事を感覚的に判断し、経済的実利や均質的幸福を、積極的にせよ消極的にせよ肯う現代社会においては、路傍の石程度の扱いでしかあり得ないのかもしれない。しかし少なくとも僕は楽しい。それにまだ僕はこの虚学の力(自虐的かつ大仰な言い方だけど)を信じている。あなたが少しでも意欲や興味のあるならば、この道に一歩足を踏み入れてみるのも一つの手かもしれない。挫折や道草は人生には付きものだ。いささか自己啓発本的まとめになった。思いの外長文になってしまったが、今進路に悩んでいる誰か一人でもいい。何かの参考になれば幸いである。

 

以上ポンコツ院生より

東京

   3/1から東京で新生活を始めている。フォロワーのオタクとルームシェアする予定なのだが、オタクはしばらく入居しないので、まあいわば一国一城の主となったわけだ。この12日間色々なことがあった。というかありすぎた。もうすでに満身創痍意気阻喪の感がなくもない。簡単にまとめようと思う。


3/1

  


  なんか最終回みたいなことをツイートしている。よっぽど舞い上がっていたのであろう。この日は同居人とフォロワーのれんちゅんまっと、公的抑圧が来た。椅子倉が女に振られ、上智を退学したと聞いた。れんちゅんは僕並みに口が軽いことを知った。同居人が友だちからいらなくなった馬鹿でかいソファーベッドをもらい受けてきたのだが、玄関から入らないほどの馬鹿でかさで、やむなくベランダから運び込んだ。れんちゅんは予定があり途中で帰ってしまったので、僕と同居人と公的の三人で無理矢理ぶち込んだが、無理矢理すぎて、早速押入れに傷がついた。ソファーベッドもベランダの柵に引っかかったせいで、裏の布がズタズタになっていた。疲労困憊。より一層働きたくないという気持ちが強化された。公的も明日男だけでスポッチャに行くからとかなんとか言って帰ってしまったので、同居人と二人で酒を飲んだ。


 


  確か2時間半ぐらい神やら人間やら文学やらなんか小難しい話を延々としていた。朝まで話し続けられそうな勢いだったが、お互いさすがに肉体的疲労からくる眠気には勝てず、最後に和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を二人で歌って寝た。


3/2 

  一人でボケーっとしていた。


  

  記憶にないがどうも髪を切ったらしい。


3/3

  割愛


3/4


  


  上京して初ゲロ


3/5


  公的が受験に落ち3浪目に突入することになった。椅子倉の件と言い、良くないことが続いている。この日は同居人が来た。



3/6


 


  昼過ぎから麻枝龍と神保町を巡った。神保町には来たことはあったが、改めて古本屋の多さに驚かされた。文学やら批評やらSFやらについて語りあって楽しかった。

  夜は椅子倉の先輩の池田が良い日本酒とリキュールを手土産に遊びに来た。二人でゲスな話に散々花を咲かせた。酔っ払って僕がデリヘルを呼んだ。ちなみに僕は初性風俗体験である。22歳学生 愛子ちゃんを指名した。相手するのは僕なのだがなぜか池田まで緊張していた。結論から言う。愛子ちゃんは愛子ちゃんじゃなかった。



  なんとやって来たのはカタコトで喋るどう見ても30は超えている学生でもないなんでもない小保方晴子似の台湾出身の嬢だったのである。しかしながら、男厭世詩家、据え膳食わぬは男の恥と、チェンジと喉元まで出かかった言葉を抑え、さらに追加料金まで払い、偽愛子のすべてを堪能した。


  

 


  池田は「不敬罪だ!」だとか「厭世さん、技能実習生系女子が来ましたねえ」とかなかなかアウトなことを言っていた。本当につらくなった。


3/7

  ぐっちょむさんが昼から来て3時間ぐらい宅飲みした。はるしにゃんの話等、僕のまだインターネットを始める前のアングラ話をたくさん聞けて非常に有意義な時間だった。ぐっちょむさんはベロベロに酔っ払って後半はほとんど呂律が回っていなかった。


3/8

  同居人が来て飯を作ってくれた。久々にコンビニ飯以外のものを食べた。美味かった。


 

 


  22時過ぎに池田が後輩を連れてまた来た。疲れていたので僕は途中で上がって寝てしまった。


 


3/9

  同居人と池袋でカレーを食べた。



  あとさすがに勉強しなさすぎてまずいなと一念発起して徹夜読書を敢行した。


3/10

  同居人とうなぎを食べた。


3/11

  ぱきくんの家に昼から飲みに行った。ぱきくんとは初めて会ったが、なかなかウマが合った。自作の小説を読ませてくれたりして、文学談義等で盛り上がった。



  このツイートをした記憶がない。完全にラリったままツイキャスを始め、実は3/3に会っていたツイのナオンの名前を連呼していたらしく、それが彼女の逆鱗に触れたのかブロックされてしまった。


  ぱきくんの家で夜まで気絶したように眠っていた。起きたら吐き気が抑えられずリビングでぶちまけた。しかもなぜか僕はぱきくんのお気に入りの18000円のズボンを履いていたらしく、毎度のことながら大変な粗相をしてしまった。そして帰りの電車で鍵がないことに気づいたのだが、もう終電間際でどうすることもできずとりあえず自宅の最寄駅まで帰った。ぱきくんからのLINEによるとどうも僕の脱ぎ捨てた自分のズボンの方に鍵は入っていたようだ。


 

 


  ......こいつまたデリヘルを呼んでいやがる。本当に可愛い子が来て最高だったので、何か記念日にまた同じ子を指名しようと思った。


3/12


 


  ラブホをチェックアウトし、ぱきくんの家へ向かった。上記の通り、昨日から踏んだり蹴ったりである。3/12、即ちこの文章を書いている今日は、金沢から東京に遊びに来ているはしかわが泊まりに来るようである。同居人と公的と沖縄帰りの椅子倉も来るとの連絡があったので、今日も騒がしくなりそうだ。


  そんなこんなでどうにかやっていっている。



  

2018/1/14

  すべての決着はついた。また失恋の痛手に悶え苦しんでいる。何もかも忘れるために図書館に来た。しかしどうもできそうにない。人は過去に拘泥しないでは生きられない。少なくとも僕はそうみたいだ。こんな時は自己啓発本めいた文句が思いつく。失ったものがあるから今を大切に思える。もうままならない過去ばかり見つめている僕から出た言葉とは思えない。考えが二転三転する。ちょうど昨日彼女を小説にしようと思った。でも今は書くのもアホらしくなってしまった。綺麗に言うなら嘘にしたくない。虚偽を混ぜたくない。さっき彼女とのLINEの履歴を消した。DMの履歴はまだ削除できなかった。もう関わらないと決めた。嫌われているから。臍を固めた。はずだったのだがその舌の根も乾かぬうちに頭は彼女に占有された。窃視の欲望がある。SNS時代だ。それは容易い。僕はそういういわゆるネトストをよくやった。だが今ではそれもみっともなく思える。他にやることがある。未来がある。僕を取り巻く環境は以前よりも格段に良くなった。馬の合う友人がいる。夢がある。はるかに世慣れた。本も読んだ。だから燻ってちゃいけない。僕は僕の道を歩き出さなくちゃいけない。頭の中にアニソンの歌詞が流れる。こんな世界に残された僕は一人何を思えばいい、だとか。朝が来れば笑えるだろうかあの日のように笑えるだろうか、だとか。質問箱で以前届いたこんな言葉を思い出す。お前はいつも被害者ぶっていると。喧嘩別れした後輩に言われた言葉を思い出す。あんただけがつらかったり悲しいわけじゃない、押し付けるな。と。どちらもその通りだ。23年生きてれば魯鈍な僕でもさすがにわかる。一つ思ったことがある。最近ベルセルクのアニメ版を見返した。ガッツは言う。グリフィスの横に立つためにはあいつの夢にすがってちゃいけない。俺は俺の戦いをする。そしてガッツはグリフィスの元を去る。物語の解釈をしたいわけではない。言葉だけを抜き出してみる。僕は生きていなかった。彼女に縋っていた。初めは違ったかもしれない。だが僕の悪い癖が出た。いつからか生きていなかった。投げ出していた。それだけはわかった気がする。もう彼女は別の世界で生き始めた。二度と交わることはないと思う。これまで色々な人との別れを思い出しながらそう感じる。アニメのセリフに感化されるのはいかにも人間が安っぽいが僕も僕の戦いに赴こうと思う。彼女のことは忘れない。というか忘れられない。だけども止まることはできない。せめて彼女の幸せを頭の片隅で願いながらどうにかまた歩いて行こうと思う。