読書会のすゝめ

今回の記事は筒井康隆の例の騒動とで迷ったのだが、Twitterやキャスやで散々喋ったので、当初から書こうと思っていたこっちを書くことにする。

僕は最近読書会に定期的に参加している。結構大規模な読書会コミュニティで東京にも支部があるので、この記事を読んで興味を持った人にはぜひ参加してみることを勧める。参加者に僕のTwitterアカウントやこのブログを補足されたくないので、直接は書かないが「名古屋 読書会」で検索すると一番上に出てくる「猫◯倶楽部」が、僕の言うそれである。

読書会とは何か? もしかして参加したことのない人からは馴染みの薄い言葉かもしれない。読書会とは決められた課題本をみんなで読んできて感想や意見を共有する会であると、一般的には定義づけられるであろう。勉強会よりは敷居が低く、あくまで趣味の延長線上で、会話を楽しむことをその主目的とすると、付け加えてもいいかもしれない。

今僕たちが何か勉強しようと思う時、一番手っ取り早い方法はその分野に関する本を読むことである。関心の度合いによってはWikipediaで事足りることもあるかもしれないが、やはりネットの情報はあくまで加工された二次的な資料であり、正確で本質的な情報を得るには一次資料にあたることが求められる。そうやって一人で勉強することはできる。しかしそれには限界があると僕は感じている。早い話が書物との対話で得られる知識や認識は、限られているだろうし、そのままでは役に立たない。文章にするにせよ、発話するにせよ、抽象的なイメージを他者の理解可能な言語に落とし込む必要がある。

その際に僕は本に関しての他者との会話が助けになると考えている。大学は講義を聞きに行く場所ではない。本を読み、教授や学生と、それらの本に関しての会話をすることで、達意可能な生きた学識を身につけていく場所である。また殊に人文系の学問の解釈は一通りではない。だがどうしても自分一人の読書だけでは一つの解釈に凝り固まることが往々にしてあり得る。他の解釈を知るためにも他者との会話は重要なことである。では実際的にそういった場所の選択肢は僕たちにいくつ与えられているだろう。

まずは大学に所属することである。同じ本を読んでいる友人を作ることは比較的容易い。また専門の教授もいるし学会もある。学会は本に関しての会話ということでは役に立たないが、教授や院生による現行のアカデミズムの最前線にある研究成果を聞くことができる有意義な場所である。だが大学を卒業してしまうとなかなかそうはいかない。同じ本を読んでいる友人を見つけ出すのは困難だ。そこで読書会の出番である。

僕の参加している「猫◯倶楽部」の参加者は30~40代が主要である。僕のような大学生は珍しい。彼らの話を聞いていると、職場で同じ本はおろか本を読んでいる人自体がそもそも稀有である。一つには社交の場、コミュニティとしての機能を果たしていると言えるだろう。この「猫◯倶楽部」では何を話すのも自由だが「他人の意見を否定してはならない」というルールが一つだけある。このルールが面白いと僕は思う。先に書いた学会などは、あるいはいわゆるマウンティング合戦であると評してもいいかもしれない。だが「他人の意見を否定してはならない」という「猫◯倶楽部」の読書会は、必然的に多様な意見の出やすい環境になっている。これが僕たちの視野狭窄を緩和してくれる。読書会の一番のメリットはここにあると思う。

もちろん選択肢は一つではない。この「猫◯倶楽部」を主催しているTさんに面白いことを聞いた。批評家の東浩紀が「ゲ◯ロンカフェ」の何かの放送で酔っ払って「猫◯倶楽部」のことをdisっていたというのである。発端は東浩紀が「純文学系のイベントで人を集めるのは難しい」とTwitter上で発言したのに対し、「猫◯倶楽部」のベテランリピーターであるNさんが、「「猫◯倶楽部」はこれだけ集めた実績がある」と返信したことにあるらしい。はっきり言って両イベントは大前提として需要が大きく異なっていると思うので、これはニュートラルに見て東浩紀の側の分が悪いと思う。

それはともかく、「ゲ◯ロンカフェ」もまた現代における人文学を勉強したいと望む人たちの寄る辺だと言えよう。「猫◯倶楽部」と比較するならば、端的に言うとこっちはガチでありやや敷居が高い。また友人を作るのが難しいのが難点であるだろう。だがこれも選択肢の一つであることには間違いない。選択肢は多ければ多いほど良い。また複数選ぶこともできる。そうした選択肢がこれから一つでも増えることを切に願っている。

なぜブログを書くのか

ブログを書く理由は人それぞれあると思う。僕がなぜTwitterだけでは飽き足らず、ブログを書こうと思うのか。一つには自意識の開陳という愚劣な欲動があるのだけれど、一応の理屈付けはある。

まず文章の修練になる。僕の文章ははっきり言って下手くそだ。とても人様に見せられるような代物ではない。それはわかっている。ならば日記でもいいのだろうけど、僕は日記を3日以上続けられた試しがない。私大ですら4年で卒業できないいかげんな男だ。続くはずがない。だけれども人の視線を介在させたならば僕みたいなグウタラな人間でも存外マメになれる。それがこの不毛な二年間のTwitterライフで得た知見である。

と、ここまではわりとありきたりな話だ。理由はもう一つある。ところで僕の卒論は筒井康隆である。多分誰も知らないと思うが『ダンシング・ヴァニティ』という2010年に上梓されたにも関わらずもうすでに絶版となっていて、かつ批評も2つしかないという読者からも批評家からも見放された不遇の長編小説だ。要旨の詳細についてはここでは省こうと思う。それでも少し書くと、だいたいメタとかループとかに、お決まりの佐々木敦(『あなたは今、この文章を読んでいる パラフィクションの誕生』)だとか現代思想だとかを、たいしてわかりもしないくせにこじつけていっちょまえにテクスト分析と現代社会を語ってみたりした愚にもつかないあの感じである。

この論文が僕の指導教授から受けた評価は、前半は細密な構造分析がなされているが、後半に行くに従って客観性実証性に欠け、まるでお前がふだん居酒屋で巻いているあの管のようだというものである。僕としては書くときは一生懸命書いたのだからもう少し褒めてくれてもいいだろうと思わないでもなかったが、後半部分がこのような評価を受けることはある程度想定内であった。なぜなら僕は僕の世代のある種の実感というものを書こうとしていたからだ。

僕がそれを構想したのは、はるしにゃんが契機である。僕はある日タイムラインに並ぶその文字列に興味を持ち、何気なくグーグルの検索窓に打ち込んだ。そして彼がもうこの世にはいないことを知り、数々のネットユーザーたちに大きな影響を与えたかけがいのない存在であったことを知った。僕は他方で別のことを考えた。はるしにゃんは確かに死んでいた。だが彼と話したこともなければ会ったこともないこの僕でも、はるしにゃんがどういう人間であったのか、その輪郭がくっきりと見えるのである。インターネットは人間を延命させられる(はるしにゃんのブログは最近消えてしまったが......)。これが僕には希望に見えた。

人間は死んでしまえば終わりである。僕は宗教とは死後のためにあるものだと思う。だって死んでしまって何も残らないのであれば、現世でのあらゆる努力は一切無意味である。先々のことを考えて~と言ったって、明日死んでしまえばそんなものなんの意味もない。しかし僕は手放しに宗教を信じる気にならない。なんとなく思考を放棄しているような気がする。これが僕の無神論者たる粗末な所以である。こうなると人生は無明の闇だ。虚無主義だ。デカダンだ。

......だけれどもそれでいいのか。いや僕は嫌だが、ではいかにして......。こう考えていたときに僕はTwitterに触れ、はるしにゃんを知った。普通人間が死んだら有名人でもない限りは近親者や友人にしかその死は共有されない。しかし情報として電子の海を漂っておけば、たとえ死後でも赤の他人であっても、人間を想像してくれる。読まれることによって人間はあたかもフィクションの登場人物のように再生される。僕の卒論では「実存のアーカイブ化」なる御大層な造語を使った覚えがあるが、僕が長々と語ってきたことの行き着く先はつまりこれである。僕という存在を残したいのだ。

そのためにはTwitterでは不十分なように思えた。だからブログを書く。更新は週一ペースで。その都度何か書きたいことを書こうと思う。僕を生存させるための何かを。