現代社会私見覚書

 逸脱がしたい。「逸脱」と言うと否定的なニュアンスを含意しているように思うが、昔の僕の意識下では「特別でありたい」だった気もする。もう少し前の社会評論なんて見てみると、それは「記号消費による差異化」の問題に近いかもしれない。誰しも自分の生の無意味さを認めたくない。だからこそ特殊でありたい。なにか少しでもいい。他の平凡人を出し抜いてやりたい。そう考えるのはごく自然なことのように思う。「内面化された他者」だなんて言葉も前述の社会評論では聞いたかもしれないが、現在SNS社会においては他者の視線は現前している。それさえも自意識過剰だと言ってしまえばそれで終わりだが、そうなるとこれはもはや現代社会日本の病理である。少し古いが三木清の『人生論ノート』を読んだ。三木清に言わせれば「虚栄」になるかもしれない。「アイデンティティ」50年代だったか60年代だったかにエリクソンの提唱した概念が今復活してきているように思える。「アイデンティティ」は本来「これでいいのだ」だった気がするが、現在の「アイデンティティ」は「これでいいよね?」だ。最初に「逸脱」といった格好つけた言葉を吐いたが、内実はこれである。どんどん人々の意識が「寛容」やら「多様性」の名の下に“毒抜きした”形でかつて「アングラ」や「サブカル」と呼ばれ、差別されてきたものを包摂する。都市を見ればわかりやすい。どこも均質化され、トポスなんて歴史の中にしか残滓でしか見出しようがない。伊藤計劃が『ハーモニー』の中で描いた白を基調にした都市像なんてのは素晴らしい皮肉だ。本来何かを訴えようとしていたネオンの光は、過剰さゆえにその意義をほとんど失った。現代社会は僕の言葉でパラフレーズすれば「意味の氾濫」だ。しかしそれさえも古い話だ。いまさらポストモダンだとかポストモダニズムなんてのも何の新規性もない。2018年を生きる僕らにとって、空気と同じだ。だが死んだり終わったとも思えない。ネットサーフィンしてみれば、より徹底した形のカリカチュアがいくらでも見られる。「都市」と「電脳空間」は同じ論理、「空虚さを前提とする商業主義」の双生児だ。ノスタルジーになるが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』にあったストリートカルチャーは、遺物となってしまって、史跡として形を遺しているにすぎない。ヤクザや暴走族も身近でなくなってしまった。統計資料がどこかにあったので一度目を通してみるといい。PCの調子が悪いので後日加筆修正する。

文系院進を考えている人へ

  僕が某大学院に入ってから2ヶ月が経った。とりあえずなんとか追い出されずには済んだ。院ロンダだったのでかなりビビッていたのだが、雰囲気はイメージしていたものとは大差なかった。厳しくレベルは高いがついていけない程ではない。大学院について思うことを、ポンコツ学徒の視点から、雑なエッセイとして書ける範囲で書こうと思う。

 

  社会科学はともかく、人文学を院で学びたいという人たちはとち狂っていると形容しても誇張でもなんでもないような現在の社会状況において、それでも院進したい人はそれなりにいるようである。社会に出るまでのモラトリアムの延長、資格の取得(臨床心理士等)、あるいは教員志望者の給与UPのため、学識をもっとつけたかったり、アカポスに就きたかったり、ただ流されてという人や、留学生もたくさんいる......そうした人たちの一助となればと急に思い立ち筆を取った次第だ。

 

  タイトルで文系/理系と雑に分類したのは、僕が文系のしかも自分の研究科の自分の専門(明記しないのも読者の混乱を招きそうなので僕は日本近現代文学が専門だということを示しておく)のことしか正確には語り得ないといった限界があるからである。よってこの文章では理系のみなさんのことは書かずにおく(軽視・蔑視しているわけではないので誤解なきよう)。大学院ごとにカリキュラムや、制度、学生・教官のやる気やレベルに差異はあるだろうが、できるだけ包括的な一般論と、自己の経験を交えながら、後輩たちへのアドバイスができたらいいと思う。

 

  まず大学院に入るには、学士を持っていなければならない(合ってるよね?)。社会人入試や内部推薦などについてはよくわからない(比較的外部入試よりは難度が低いと聞く)。僕自身名古屋の方の大学から外部の人間として入ってきたので、まずその個人的な体験を語りたいと思う。僕の専門分野は、1.卒論(書けていない人はそれ準ずる論文)と願書(研究計画書のいる場合が多い)の提出 2.外国語のペーパーテスト(多分野では1科目で済まない場合が多い) 3.専門科目のペーパーテストまでが一次試験で、二次試験はこれから実際に教わる教授たちとの面接だった。外国語に自信のある学生ならまず外国語は問題無いと思う(僕のように院ロンダしなければ)。専門科目に関しては、問題の傾向を過去問(だいたいの院は無料で取り寄せできる)から探ることができるので、対策は立てやすいと思う(ただしいきなり出題形式が受験年からガラリと変わることもあるので注意)。これらで足切りされなければ、ようやく二次試験の面接にたどり着ける(一次試験の結果が出るまで3週間ほどかかる場合もあればその日に行う場合もある)。

 

  面接の思い出を語ろう。面接官の教授は確か4人いた。全員がこちらを睨みつけているように感じられとても緊張した。企業の圧迫面接とはこういうものなのだろうかと想像したりした。なにせこの業界では名の知れた大物研究者ばかりである。志望動機と研究計画をまず聞かれた。そして試験の結果への感想が述べられるのだが「君、英語の点数があまりに低すぎて、今日ここに呼ぶかどうか教授会にかけたんだよ」と言われた。その瞬間冷や汗が止まらなくなった。そこからは各教授から個別に専門的な質問が飛んだ。もう何を喋ったかもあまり思い出せないが、とにかく固有名をたくさん挙げ、口八丁手八丁で誤魔化したと記憶している。結局合格したから良かったのだが......(ちなみに3校受けて1校だけ運良くひっかっかった)合格通知はネットでしか見られないという形式だったが、半ば諦めていたので、自分の受験番号を見つけた時は、狂喜乱舞した。

 

  そうして、4月から大学院が本格的に始まった。僕の研究科では、修士を終えるためには32単位を取得しなければならない。学部生からしたら少なく思えるだろうが、一つ一つの講義演習の密度は想像を絶した。月〜木まで1〜3コマずつしか入れなかったのだが、このエッセイの執筆現在すでに満身創痍である。というのも一回の講義で、レジュメを何十枚と渡される。自分の勉強も併せて調べ物をせねばならず、僕の家にはすぐにレジュメの地層が出来上がった。演習発表は前期だけで、3本あり、その準備で毎日図書館通いをする羽目になった(と言っても現在まだ2本発表を残しており数本のレポートも学期末に書かなければならない)。読まなければならない本は日に日に増えていく。取捨選択と要領の良さの重要性を思い知らされた。理系院生に比べ、文系院生は楽というのは真っ赤な嘘である。いや実際に理系院生の方が忙しいかもしれないが、文系院生も生半可な覚悟で入れば必ず落伍すると思う。同期や留学生や先輩の意識の高さ、教授連の要求度の高さには、眼を見張るものがあり、改めて研究者になる法、いやそれ以前にこの環境でどうにかしがみついていく法からして、考えなければならなかった。僕は鬱病持ちなので、ことにきつかった。焦燥感と苛立ちから15kg痩せた。とにかく一日中勉強について考えなければ、よっぽどの天凛を持たぬ限りは、退学せざるを得ない。

 

  院生は学部生の延長では決してない。まったく別物である。さらに言えば、これはM(修士課程)の話で、D(博士課程)まで進むなら、並大抵のモチベーションではポッキリ折れてしまう。M2に上がればすぐに修論準備である。まとまった論文を3〜5つ書かなければならない。そこまで思いを巡らすと、胸が苦しくなってくるのだが、これはあくまで課程を終えるために必要な最低限のことだ。もちろん専門科目を深めることも肝要だが、多種多様な研究手法の体得、学際的な知の蓄積が、先に待ち受ける博士論文を書く上では必要不可欠であると感じる。先行研究を真似るだけでは、所詮そこまでだ。研究として価値のあるものの創造。それには技倆だけでなく、分野の制度を掴む必要がある。これもなかなか難しい。また博士課程に進むための試験の準備もしなければならない。もちろん院試よりも難易度は高い。

 

  ここでお金の話もしておく。ある非常勤講師から聞いた話では、M2D6を標準として、ようやく博士号が取れ非常勤講師に昇格できるらしい。つまりその間の学費・生活費をどうにかしなければならない。多くの院生たちは日々バイトをしている。僕はしばらくは親からの援助と奨学金で賄えそうだが、いずれ資産の寿命も尽きる。DCという助成制度もあるが審査は厳しく(学会発表、査読付き雑誌への寄稿などの業績も評価基準となる)ほとんどの人は貰うことが能わない。博士論文の執筆は(仮に博士課程に進めれば)、バイトをするのか一度就職するかは決めていないが、働きながらになるだろう。博士論文には査読がある。博士号はそう容易く手に入るものでもない。やれやれ不安は湯水のように溢れ出る。

 

  ここまで暗い話ばかりした。なので最後は希望のある話(現実と遊離したオプティミズムかもしれないが)をして締めたい。不満と不安を徒然なるままに書き散らしたが、なんだかんだでこの道を選んだことに僕は後悔はない。たくさんの発見があり、知の奔流で揉まれることで、日々自分が進化していると感じることができている。また愉快な仲間(もとい同志や戦友と呼んだ方が適切かもしれない)たちにも恵まれた。毎日とにかく疲労困憊だが、とても充実している。濃厚な一日一日を過ごせている。学問は、この誰もが、過剰な情報の氾濫に囲繞され、物事を感覚的に判断し、経済的実利や均質的幸福を、積極的にせよ消極的にせよ肯う現代社会においては、路傍の石程度の扱いでしかあり得ないのかもしれない。しかし少なくとも僕は楽しい。それにまだ僕はこの虚学の力(自虐的かつ大仰な言い方だけど)を信じている。あなたが少しでも意欲や興味のあるならば、この道に一歩足を踏み入れてみるのも一つの手かもしれない。挫折や道草は人生には付きものだ。いささか自己啓発本的まとめになった。思いの外長文になってしまったが、今進路に悩んでいる誰か一人でもいい。何かの参考になれば幸いである。

 

以上ポンコツ院生より

東京

   3/1から東京で新生活を始めている。フォロワーのオタクとルームシェアする予定なのだが、オタクはしばらく入居しないので、まあいわば一国一城の主となったわけだ。この12日間色々なことがあった。というかありすぎた。もうすでに満身創痍意気阻喪の感がなくもない。簡単にまとめようと思う。


3/1

  


  なんか最終回みたいなことをツイートしている。よっぽど舞い上がっていたのであろう。この日は同居人とフォロワーのれんちゅんまっと、公的抑圧が来た。椅子倉が女に振られ、上智を退学したと聞いた。れんちゅんは僕並みに口が軽いことを知った。同居人が友だちからいらなくなった馬鹿でかいソファーベッドをもらい受けてきたのだが、玄関から入らないほどの馬鹿でかさで、やむなくベランダから運び込んだ。れんちゅんは予定があり途中で帰ってしまったので、僕と同居人と公的の三人で無理矢理ぶち込んだが、無理矢理すぎて、早速押入れに傷がついた。ソファーベッドもベランダの柵に引っかかったせいで、裏の布がズタズタになっていた。疲労困憊。より一層働きたくないという気持ちが強化された。公的も明日男だけでスポッチャに行くからとかなんとか言って帰ってしまったので、同居人と二人で酒を飲んだ。


 


  確か2時間半ぐらい神やら人間やら文学やらなんか小難しい話を延々としていた。朝まで話し続けられそうな勢いだったが、お互いさすがに肉体的疲労からくる眠気には勝てず、最後に和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を二人で歌って寝た。


3/2 

  一人でボケーっとしていた。


  

  記憶にないがどうも髪を切ったらしい。


3/3

  割愛


3/4


  


  上京して初ゲロ


3/5


  公的が受験に落ち3浪目に突入することになった。椅子倉の件と言い、良くないことが続いている。この日は同居人が来た。



3/6


 


  昼過ぎから麻枝龍と神保町を巡った。神保町には来たことはあったが、改めて古本屋の多さに驚かされた。文学やら批評やらSFやらについて語りあって楽しかった。

  夜は椅子倉の先輩の池田が良い日本酒とリキュールを手土産に遊びに来た。二人でゲスな話に散々花を咲かせた。酔っ払って僕がデリヘルを呼んだ。ちなみに僕は初性風俗体験である。22歳学生 愛子ちゃんを指名した。相手するのは僕なのだがなぜか池田まで緊張していた。結論から言う。愛子ちゃんは愛子ちゃんじゃなかった。



  なんとやって来たのはカタコトで喋るどう見ても30は超えている学生でもないなんでもない小保方晴子似の台湾出身の嬢だったのである。しかしながら、男厭世詩家、据え膳食わぬは男の恥と、チェンジと喉元まで出かかった言葉を抑え、さらに追加料金まで払い、偽愛子のすべてを堪能した。


  

 


  池田は「不敬罪だ!」だとか「厭世さん、技能実習生系女子が来ましたねえ」とかなかなかアウトなことを言っていた。本当につらくなった。


3/7

  ぐっちょむさんが昼から来て3時間ぐらい宅飲みした。はるしにゃんの話等、僕のまだインターネットを始める前のアングラ話をたくさん聞けて非常に有意義な時間だった。ぐっちょむさんはベロベロに酔っ払って後半はほとんど呂律が回っていなかった。


3/8

  同居人が来て飯を作ってくれた。久々にコンビニ飯以外のものを食べた。美味かった。


 

 


  22時過ぎに池田が後輩を連れてまた来た。疲れていたので僕は途中で上がって寝てしまった。


 


3/9

  同居人と池袋でカレーを食べた。



  あとさすがに勉強しなさすぎてまずいなと一念発起して徹夜読書を敢行した。


3/10

  同居人とうなぎを食べた。


3/11

  ぱきくんの家に昼から飲みに行った。ぱきくんとは初めて会ったが、なかなかウマが合った。自作の小説を読ませてくれたりして、文学談義等で盛り上がった。



  このツイートをした記憶がない。完全にラリったままツイキャスを始め、実は3/3に会っていたツイのナオンの名前を連呼していたらしく、それが彼女の逆鱗に触れたのかブロックされてしまった。


  ぱきくんの家で夜まで気絶したように眠っていた。起きたら吐き気が抑えられずリビングでぶちまけた。しかもなぜか僕はぱきくんのお気に入りの18000円のズボンを履いていたらしく、毎度のことながら大変な粗相をしてしまった。そして帰りの電車で鍵がないことに気づいたのだが、もう終電間際でどうすることもできずとりあえず自宅の最寄駅まで帰った。ぱきくんからのLINEによるとどうも僕の脱ぎ捨てた自分のズボンの方に鍵は入っていたようだ。


 

 


  ......こいつまたデリヘルを呼んでいやがる。本当に可愛い子が来て最高だったので、何か記念日にまた同じ子を指名しようと思った。


3/12


 


  ラブホをチェックアウトし、ぱきくんの家へ向かった。上記の通り、昨日から踏んだり蹴ったりである。3/12、即ちこの文章を書いている今日は、金沢から東京に遊びに来ているはしかわが泊まりに来るようである。同居人と公的と沖縄帰りの椅子倉も来るとの連絡があったので、今日も騒がしくなりそうだ。


  そんなこんなでどうにかやっていっている。



  

2018/1/14

  すべての決着はついた。また失恋の痛手に悶え苦しんでいる。何もかも忘れるために図書館に来た。しかしどうもできそうにない。人は過去に拘泥しないでは生きられない。少なくとも僕はそうみたいだ。こんな時は自己啓発本めいた文句が思いつく。失ったものがあるから今を大切に思える。もうままならない過去ばかり見つめている僕から出た言葉とは思えない。考えが二転三転する。ちょうど昨日彼女を小説にしようと思った。でも今は書くのもアホらしくなってしまった。綺麗に言うなら嘘にしたくない。虚偽を混ぜたくない。さっき彼女とのLINEの履歴を消した。DMの履歴はまだ削除できなかった。もう関わらないと決めた。嫌われているから。臍を固めた。はずだったのだがその舌の根も乾かぬうちに頭は彼女に占有された。窃視の欲望がある。SNS時代だ。それは容易い。僕はそういういわゆるネトストをよくやった。だが今ではそれもみっともなく思える。他にやることがある。未来がある。僕を取り巻く環境は以前よりも格段に良くなった。馬の合う友人がいる。夢がある。はるかに世慣れた。本も読んだ。だから燻ってちゃいけない。僕は僕の道を歩き出さなくちゃいけない。頭の中にアニソンの歌詞が流れる。こんな世界に残された僕は一人何を思えばいい、だとか。朝が来れば笑えるだろうかあの日のように笑えるだろうか、だとか。質問箱で以前届いたこんな言葉を思い出す。お前はいつも被害者ぶっていると。喧嘩別れした後輩に言われた言葉を思い出す。あんただけがつらかったり悲しいわけじゃない、押し付けるな。と。どちらもその通りだ。23年生きてれば魯鈍な僕でもさすがにわかる。一つ思ったことがある。最近ベルセルクのアニメ版を見返した。ガッツは言う。グリフィスの横に立つためにはあいつの夢にすがってちゃいけない。俺は俺の戦いをする。そしてガッツはグリフィスの元を去る。物語の解釈をしたいわけではない。言葉だけを抜き出してみる。僕は生きていなかった。彼女に縋っていた。初めは違ったかもしれない。だが僕の悪い癖が出た。いつからか生きていなかった。投げ出していた。それだけはわかった気がする。もう彼女は別の世界で生き始めた。二度と交わることはないと思う。これまで色々な人との別れを思い出しながらそう感じる。アニメのセリフに感化されるのはいかにも人間が安っぽいが僕も僕の戦いに赴こうと思う。彼女のことは忘れない。というか忘れられない。だけども止まることはできない。せめて彼女の幸せを頭の片隅で願いながらどうにかまた歩いて行こうと思う。

ああそれにしてもセ○クスがしたい......!

 「自分は女に飢えている。」この書き出しから始まるのは武者小路実篤の小説「お目出たき人」である。僕も女に飢えている。3月某日に女を知ってというもの、もう丸半年も女の肌に触れていない。というかろくに女と喋ってすらいない。それもこれも公的抑圧が悪い(詳しくは下記参照)。

 

pkd-straysheep.hatenablog.com

 

 奴のせいでいまだに例の彼女との関係は最悪である。僕のツイートはミュートされており、たまにクソくだらないリプライを送ってみるが反応のあったためしがない。DMで水面下の交渉を続けているが、会う約束はもう三回も反故にされた。まるで冷戦だ(ブログの件以後、彼女との一ヶ月の禁酒の約束を破ったり、オフパコ関連のキモいツイートを連発して彼女にリムーブされたりはしたが、そんなことは瑣末事だ。僕には何の咎もないはずだ。全部公的抑圧が悪い。)。彼女と会うことはもう二度とかなわないかもしれない......。

 というわけでセックスしようにもパートナーがいない。ところでこれは僕のブログである。現実はままならない。クソだ。クソの塊だ。だが妄想なら何とでもなる。そこでいっちょ僕の貧困な想像力を働かせてみる。

 やはり手軽なのはインターネットだ。女性フォロワーも増えてきた。手当たり次第「オフ会しませんか?」とDMを送ってみたら何人かは会ってくれるだろう。しかしツイッターのナオンには彼氏がいる。この率は僕の界隈では100%に近い。まず良い雰囲気になることはないだろう。現実は非情である。しかし今ここは僕の妄想である。なので彼氏のいないメンヘラナオンと会うことにする。待ち合わせはどこにしようか? あいにくと僕は東京の地理に明るくない。とりあえずツイのナオンのよく行きそうな池袋にしよう。場所は池袋だ。季節は夏が良い。午後3時。向こうから彼女がやってくる。服装は白無垢のワンピースだ。僕の好みに合わせ黒髪のミディアムで童顔のBカップである。そこ! キモオタくさいとか言うんじゃない! 

 「ごめんなさい。あの、待ちました?」

 「うんうん、全然待ってないよ。じゃあ行こうか。」

 僕らは微笑みあいながらオシャレなカフェに入る。僕はオシャレなカフェに入ったことがないので内装の描写は勘弁してほしい。とにかくオシャレなカフェだ。オシャレなカフェだがそこは喫煙者の僕に配慮して煙草が吸える。しかも立ち込める煙草の煙に誰も嫌な目つきで睨めつけたりしない。なぜならこれは僕の妄想なのだから。

 たあいない雑談をいくらか交わしたのちオシャレなカフェを後にする。日も暮れかけ僕らはバルに入る。なんとなくオシャレな響きがするからバルと言ってみたが酒が飲めればなんでも構わない。ようは酔わせりゃ勝ちである。そしてここで僕の伝家の宝刀頭ポンポンが炸裂する。(詳しくは下記の公的抑圧のブログ参照)

 

俺も救われるだろうか? - 妄想サンバ

 

 バルを出る頃にはもう二人は恋人気分である。僕は彼女の手を握る。彼女は僕に肩を預けてくる。

 「えへへ酔っちゃった~」

 そして二人の足はごく自然にホテルへと向かう。部屋に入ると彼女はおもむろにデパスを取り出す。彼女は4粒押し出しそれらを手洗い場の水で飲み、僕にも勧めてくる。

 「あ~なんかふわふわしてきちゃった。服脱いじゃうね。」

 薄いピンク色の下着姿になった彼女の肢体には生なましい切り傷が無数に刻まれている。僕も下着姿になり二人はベッドへと飛び込む。彼女は僕に首を締めるように要求する。僕は恐々としながら彼女の首に手をかける。生唾を飲み込む。少しずつ指に力を込めていく。

 「もっと強く締めていいよ」

 頭がクラクラする。彼女の身体は白く現実感を喪いまるでマネキンのようだ。顔だけが赤く存在を主張している。今何時だろう? ふとそんなことが頭によぎる。彼女の表情には恍惚と苦悶が入り混じっている。前髪の生え際のあたりから汗が流れ出す。かすかに彼女の体臭が鼻をかすめる。次の瞬間彼女は僕の脇腹を思いっきり何度も強く叩きつける。僕はそれがギブのサインだとわかり指に解放の指令を送る。彼女は息を一度大きく吸い込みそれから堰が切れたように嗚咽した。どうやらやり過ぎてしまったらしい。

 「ねぇ......なんで生きなくちゃならないんだろう......?」

 彼女の涙はいつからか本降りになり僕は彼女を抱きしめる。その刹那僕は思う。彼女は僕が守らなくちゃならない。なんか初恋の女の時もこんなことを思って手痛いしっぺ返しを食らったような気がするが今は気にならない。そうだ! これが真実の愛だ! 僕はついにたどり着いたのだ。世界にはもう君と僕しかいない! これからは二人で暮らそう。嫌なこともつらいことも死にたい夜も全部まとめて抱きしめてあげよう。僕らは、僕らは、僕らは......!

 

 

 

 ............今僕はパソコンのモニター以外明かりのない室内でキーボードを打っている。

 

 ああそれにしてもセックスがしたい......!

俺みたいにはなるなよ

 8/26に院試があったので名古屋から上京した。僕はいつもフォロワーのシェアハウス(迷惑がかかる可能性があるので名前を伏せます)を定宿にしている。疲れていたし他のフォロワーたちと23:00から飲む約束をしていたので、シェアハウスで睡眠薬を飲んで仮眠を取りたかった。だが運の悪いことにその日はシェアハウスで勉強会が行われる日で、20人ぐらいの人々がクーラーの効かない室内をひしめき合っていた。実はそのシェアハウスは政治色のかなり濃い場所で、集まった人々は皆なんらかの政治的主張を持った若き政治青年たちである。ポンコツ文学青年の僕としては、これはまた場違いなところに来てしまったなあと思いつつも、周りの空気に流されて、末席に連なりちょっと見物をすることにした。発表自体はとても興味深かったのだが、ほとんど知り合いがいないので気まずいなあと思っていたところに、また他のフォロワーから飲まないか?とDMがやってきた。これは渡りに船と思い、熱気に包まれる会場からひっそりと抜け出し、しばらく駅前の居酒屋で一杯やった。これがいけなかった。

 相方は1時間ほどで帰ってしまったので少し予定を早め、22:00すぎ頃に飲みの約束をしていたフォロワーを呼び出した。酒盛りは大いに盛り上がった。ところで、僕は決してお酒には強くない。結構イケる口ではあるのだが、いつも限界を超えて飲んでしまう。記憶を飛ばすこともしょっちゅうで、23歳にして酒の失敗は数え切れない。この日もこの二軒目に入ってから1時間以後の記憶がまったくない。あとから聞いた話によると、フォロワーを思いっきり蹴り飛ばし、大声で「だんご大家族」の歌詞のだんご部分をすべてまんこに変えた「まんこ大家族」を歌ったりして、店員に追い出されたそうだ。ここまでは良かった。

 

 次に意識が戻った時、僕はマンションの踊り場で4人の警官に囲まれていた。頭脳明晰な僕は瞬時に状況を理解した。がさ入れだ!!!

 

 シェアハウスに戻ってきた僕はなんとがさ入れの現場に遭遇してしまったのである。さきほども書いたように今シェアハウスの中には運動家たちがたくさんいる。部屋をあらためられてしまったら最後、今後の彼らの活動がやりにくくなることは間違いないだろう。逮捕者も出るかもしれない。卑劣な国家権力め。深夜に押しかけてこんなだましうちのような形で、少しでも社会を良くしようと日夜努力している政治青年たちを無実の罪で塀の中に入れようというのか! この世界は狂っている! 恥を知れ!

 この時の僕は間違いなくメロスだった。いやセリヌンティウスかもしれない。ここで僕が人身御供になれば彼らを守ることができる。そう閃いた僕は彼らにあえて捕まることにした。パトカーに乗せられ警察署に連行されたようなのだが、どうもこの時の記憶は明瞭ではない。警察署では苛烈な取り調べを受けた。何かよくわけのわからないことを警官たちは言ったが、僕は断じてシェアハウスのことは黙秘した。ついには所持品もすべて没収され、独房のような場所に連れて行かれた。独房には硬いマットレスと薄汚い毛布しかなく、外から鍵がかかっていた。しかしこの状況下にあっても僕は自分が誇らしかった。友人を、そして多くの前途有望の若者たちを守った。僕は自分に勲章を与えてやってもいいと思った。

 翌午前10時、名古屋から母が来て僕はたくさんの警官に囲まれながら釈放された。そして母に自分の義の行いを得意顔で語った。しかしなぜか母は悲しげだった。母の返した言葉は驚くべきものだった。

  「さっき警察の人に全部聞いたんだけど、実際にあったことは君の言ってる話とは全然違うの......」

 

 真相はこうだ。僕がいたビルは実はフォロワーのシェアハウスの隣のビルだった。僕が「開けてくれよ~!!!」と明け方騒いでいるのを見かねた住人が110番した。実はがさ入れなんて最初から無かったのである。住人が告訴しなかったから良かったものの、もしも訴えられていたら住居不法侵入で前科一犯である。世界よごめん、狂っていたのは俺の頭の方だった。母は執拗に僕を名古屋に帰らせたがったが僕は真相を知ってもなお帰りたくなかった。まだ今日の飲み会の約束が残っている。

 シェアハウスに帰りこの話をしたらみんな呆れ果てていた。どうやら僕の声は隣のビルから届いていたようである。だったら誰か助けてくれよ。

 それから睡眠薬を飲んでしばらく眠った。13:00からフォロワーの公的抑圧と大槻ケンヂ縛りのカラオケをする約束をしていたが、公的抑圧から連絡を受けた住人に叩き起こされた時刻は14:30である。眠い目をこすり約束の御徒町に向かった。乗り換えの神田駅で缶コーヒーを買って飲んだ。これがいけなかった。

 どうやら昨日の酒が残っていたようである。口を抑えトイレに駆け込んだ。間に合わなかった。しかもを口を抑えていたせいで全身がゲロまみれになってしまった。僕は個室に駆け込みパンツ一丁になって泣きながら公的にDMを送った。頼む。服を買ってきてくれ。ちなみにその時着ていた服は太宰治の顔と「I'm sorry I was born.」という文字が印刷されたイカしたTシャツである。顔面ゲロまみれになった太宰はいつにもまして憂鬱そうな顔をしていた。

 公的とのカラオケは楽しかった。すべての嫌な出来事を忘れさせてくれた。大槻ケンヂのサーチライトを歌った。その曲にこうある。

俺みたいになるなよ

俺みたいになるなよ

俺みたいになるなよ

俺みたいにはなるなよ

鬱は抜けられるか? 前編

前回のブログは思った以上に反響があり(というか半ば炎上して)、僕に対してのネガティブな書き込みも多数見受けられ、かつての僕ならば酒と薬に頼って今は人事不省になっていてもおかしくはないほどの盛り上がりを見せてしまった。読者の期待する内容はきっと前回のブログと関連のあるものに違いない。だけれども、そもそもこのブログは僕の書きたいことをダラダラと、たとえつまらなくとも書き綴ることを目的として始めたものなので、今回は鬱病をテーマにいっちょ書いてみようと思う。

僕は現在鬱病の治療を受けている。2016年3月からメンタルクリニックに通っているのでもう1年とちょっとになる。実は最近はかなり快方に向かっているという実感があり、薬も徐々に減薬の段階に入ってきている。僕はなぜ立ち直ることができたのか? また鬱は本当に抜けられるのか? この問題に入る前段階としてまずは僕が鬱になった原因から書いていこうと思う。

僕が鬱になった原因は失恋である。いやこれだけでは正確ではない。僕が失恋したのは2015年10月頃のことであったが、まだその頃は死にたいなどとは露にも思っていなかった。僕が失恋した相手は大学の先輩だった。僕にとっては初恋で、もう彼女無しには人生を考えられないほどに熱を上げていた。10月頃の失恋は確かにつらかった。一週間ほど酒浸りになりゼミもその週は欠席した。僕は忘れらなかった。永遠の女性だった。

そんな中でも時は過ぎていって、ついに彼女の卒業式がやってきた。卒業式で僕は彼女に勇気を出して「一緒に写真撮りませんか?」と声をかけた。彼女は承諾した。僕は無邪気にそのことを喜んだ。ずっとこの言葉が言いたかった。僕らの仲は以前とは比べ物にならないほどぎくしゃくしてしまっていたが、この言葉さえ言えればすべてがチャラになる気がしていた。

僕はゼミの教授と親しかったので彼女のゼミの飲み会にも参加した。そして二次会のカラオケ。彼女と僕の仲の良い先輩、それにもう一人初対面の先輩を交えて4人で一夜を過ごした。歌は歌わずに主に四年間の思い出話が語られた。彼女がふとこぼした。「私~1年の頃に漫研に入ってたんだけど学園祭でコスプレとかしちゃって、男の先輩に写真撮られたんだよね~。あれ今思うとマジで消してほしいな~。」そして彼女は僕の顔を覗き込みこんなことを言った。「◯◯くんも今日撮った写真、絶対消してね!」

僕の中で何かが壊れた。僕はせめて彼女と笑って過ごしたその思い出だけを大切にしてこれからの人生を生きていこうと、忘れられない、だが忘れなければいけない、その激しい葛藤の中で、それだけを頼りにやっていこうとしていた。それを踏みにじられた。「私の四年間に位置を占めないでほしい」そんなことを言われた気がした。

僕は朝6時の名古屋駅で一人泣きながら写真を消した。涙が次から次へと溢れて止まらなかった。僕は衝動的に彼女のTwitterとLINEをブロックした。次の日先輩の勧めもあって彼女に電話した。僕はウイスキーを浴びるように飲み泥酔していた。会話の内容は覚えていないが僕は激怒した。電話を切ったあと彼女から謝罪のLINEがきた。そこから幾通ものやりとりがあったが結果は芳しくなかった。僕は絶望した。やりきれない気持ちと自己嫌悪と希死念慮だけがそこにあった。

「死にたい」そう一日中思う日々が何日も続き、まったく本を読めなくなってしまった。僕は一個の廃人だった。まずいと思った。今まで僕の人生はほとんど失敗続きだった。中高大と黒歴史は両手で収まらない。その度に乗り越えてきた。だがそんな僕でも今回ばかりは駄目だった。何もできない。頭は悲しみと憎しみと虚しさでいっぱいだった。僕は人の手を頼ろうと思った。真っ先に思いついたのはメンタルクリニックだった。

と、ここまで書いてみて思いの外長くなってしまったので続きは次回に回そうと思う。鬱病への言及が少なくなってしまって申し訳ない。これではタイトル詐欺だ。次回ちゃんと書くので許してください。