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なぜブログを書くのか

ブログを書く理由は人それぞれあると思う。僕がなぜTwitterだけでは飽き足らず、ブログを書こうと思うのか。一つには自意識の開陳という愚劣な欲動があるのだけれど、一応の理屈付けはある。

まず文章の修練になる。僕の文章ははっきり言って下手くそだ。とても人様に見せられるような代物ではない。それはわかっている。ならば日記でもいいのだろうけど、僕は日記を3日以上続けられた試しがない。私大ですら4年で卒業できないいかげんな男だ。続くはずがない。だけれども人の視線を介在させたならば僕みたいなグウタラな人間でも存外マメになれる。それがこの不毛な二年間のTwitterライフで得た知見である。

と、ここまではわりとありきたりな話だ。理由はもう一つある。ところで僕の卒論は筒井康隆である。多分誰も知らないと思うが『ダンシング・ヴァニティ』という2010年に上梓されたにも関わらずもうすでに絶版となっていて、かつ批評も2つしかないという読者からも批評家からも見放された不遇の長編小説だ。要旨の詳細についてはここでは省こうと思う。それでも少し書くと、だいたいメタとかループとかに、お決まりの佐々木敦(『あなたは今、この文章を読んでいる パラフィクションの誕生』)だとか現代思想だとかを、たいしてわかりもしないくせにこじつけていっちょまえにテクスト分析と現代社会を語ってみたりした愚にもつかないあの感じである。

この論文が僕の指導教授から受けた評価は、前半は細密な構造分析がなされているが、後半に行くに従って客観性実証性に欠け、まるでお前がふだん居酒屋で巻いているあの管のようだというものである。僕としては書くときは一生懸命書いたのだからもう少し褒めてくれてもいいだろうと思わないでもなかったが、後半部分がこのような評価を受けることはある程度想定内であった。なぜなら僕は僕の世代のある種の実感というものを書こうとしていたからだ。

僕がそれを構想したのは、はるしにゃんが契機である。僕はある日タイムラインに並ぶその文字列に興味を持ち、何気なくグーグルの検索窓に打ち込んだ。そして彼がもうこの世にはいないことを知り、数々のネットユーザーたちに大きな影響を与えたかけがいのない存在であったことを知った。僕は他方で別のことを考えた。はるしにゃんは確かに死んでいた。だが彼と話したこともなければ会ったこともないこの僕でも、はるしにゃんがどういう人間であったのか、その輪郭がくっきりと見えるのである。インターネットは人間を延命させられる(はるしにゃんのブログは最近消えてしまったが......)。これが僕には希望に見えた。

人間は死んでしまえば終わりである。僕は宗教とは死後のためにあるものだと思う。だって死んでしまって何も残らないのであれば、現世でのあらゆる努力は一切無意味である。先々のことを考えて~と言ったって、明日死んでしまえばそんなものなんの意味もない。しかし僕は手放しに宗教を信じる気にならない。なんとなく思考を放棄しているような気がする。これが僕の無神論者たる粗末な所以である。こうなると人生は無明の闇だ。虚無主義だ。デカダンだ。

......だけれどもそれでいいのか。いや僕は嫌だが、ではいかにして......。こう考えていたときに僕はTwitterに触れ、はるしにゃんを知った。普通人間が死んだら有名人でもない限りは近親者や友人にしかその死は共有されない。しかし情報として電子の海を漂っておけば、たとえ死後でも赤の他人であっても、人間を想像してくれる。読まれることによって人間はあたかもフィクションの登場人物のように再生される。僕の卒論では「実存のアーカイブ化」なる御大層な造語を使った覚えがあるが、僕が長々と語ってきたことの行き着く先はつまりこれである。僕という存在を残したいのだ。

そのためにはTwitterでは不十分なように思えた。だからブログを書く。更新は週一ペースで。その都度何か書きたいことを書こうと思う。僕を生存させるための何かを。