現代社会私見覚書

 逸脱がしたい。「逸脱」と言うと否定的なニュアンスを含意しているように思うが、昔の僕の意識下では「特別でありたい」だった気もする。もう少し前の社会評論なんて見てみると、それは「記号消費による差異化」の問題に近いかもしれない。誰しも自分の生の無意味さを認めたくない。だからこそ特殊でありたい。なにか少しでもいい。他の平凡人を出し抜いてやりたい。そう考えるのはごく自然なことのように思う。「内面化された他者」だなんて言葉も前述の社会評論では聞いたかもしれないが、現在SNS社会においては他者の視線は現前している。それさえも自意識過剰だと言ってしまえばそれで終わりだが、そうなるとこれはもはや現代社会日本の病理である。少し古いが三木清の『人生論ノート』を読んだ。三木清に言わせれば「虚栄」になるかもしれない。「アイデンティティ」50年代だったか60年代だったかにエリクソンの提唱した概念が今復活してきているように思える。「アイデンティティ」は本来「これでいいのだ」だった気がするが、現在の「アイデンティティ」は「これでいいよね?」だ。最初に「逸脱」といった格好つけた言葉を吐いたが、内実はこれである。どんどん人々の意識が「寛容」やら「多様性」の名の下に“毒抜きした”形でかつて「アングラ」や「サブカル」と呼ばれ、差別されてきたものを包摂する。都市を見ればわかりやすい。どこも均質化され、トポスなんて歴史の中にしか残滓でしか見出しようがない。伊藤計劃が『ハーモニー』の中で描いた白を基調にした都市像なんてのは素晴らしい皮肉だ。本来何かを訴えようとしていたネオンの光は、過剰さゆえにその意義をほとんど失った。現代社会は僕の言葉でパラフレーズすれば「意味の氾濫」だ。しかしそれさえも古い話だ。いまさらポストモダンだとかポストモダニズムなんてのも何の新規性もない。2018年を生きる僕らにとって、空気と同じだ。だが死んだり終わったとも思えない。ネットサーフィンしてみれば、より徹底した形のカリカチュアがいくらでも見られる。「都市」と「電脳空間」は同じ論理、「空虚さを前提とする商業主義」の双生児だ。ノスタルジーになるが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』にあったストリートカルチャーは、遺物となってしまって、史跡として形を遺しているにすぎない。ヤクザや暴走族も身近でなくなってしまった。統計資料がどこかにあったので一度目を通してみるといい。PCの調子が悪いので後日加筆修正する。