電子失踪していた間のこと

 

 つい先日まで実家に帰りスマホの電源を落とし、4ヶ月ほど引きこもりに戻っていた。親父が亡くなったからというのは半ば言い訳に過ぎない。東京での生活が破綻を来していたからだ。具体的には、精神と神経の失調、頽廃的生活、人間関係疲れといったそこらへんにいくらでも転がっていそうな平板な理由だ。アタマがどうにかなりそうな時は、狂気がかったツイートしかできなくなるということには、嗜虐的な自虐がいくらでも思いついて呆れかえった。

 

 11月下旬のことだったと思うが、5年間寝たきりの植物状態だった親父が、同じく瀕死の生を送る僕へと救いの手を差し伸べるかのように、危篤になり、急死した。とうの昔から覚悟はできていたので、あまりショックは大きくなかった。同居していた友人が自殺したこともあったので、「今年は喪の年だね」と軽口をたたく余裕もあった。大学院の課題から逃げ出し、観想的生活に耽ることとなった。引きこもりも中学時代経験があり、10年ぶりのホンモノの隠棲も苦ではなかった。精神疾患に理解があり献身的に支えてくれる母親。居心地のいい我が家。慣れ親しんだ孤独。時間に縛られない日々。外界からは隔絶されそれはもう快かった。

 

 しかし、大学院に不義理をしてしまったこと、自殺未遂の経験のある僕を知る数々の友人との連絡途絶、将来に対する唯ぼんやりとした不安、悩みはいくらでもあった。あのまま引きこもりを続けていれば、何年やれたろうか? 決して裕福な家庭ではなかったので就労問題から、仲の良い母ともいずれは険悪な関係性になっていただろう。何より、若さがそれを許さなかった。アニオタ、文学青年を経て、研究者を志していた僕は、夥しい量のフィクションに触れ、それらに一々影響を大きく受けた。感受性、共感性が強く、抑鬱に押しつぶされそうになり死をすぐに想起する僕をつなぎとめていたのは、親父譲りのなぜか生きたがる出鱈目で膨大な量のエネルギーと、事象を束ね物語をまだ紡げていない、つまり主人公を僭称しながらもなり切れていない自分へのふがいなさに対抗する負けん気の強さからで、それらは皮肉なことに日々僕のストレスを募らせ、僕は益々おかしくなっていった。

 

 中学時代は引きこもりから抜け出すという目標があった。高校時代はFランから普通の大学に入るという目標があった。親父が倒れ情熱的恋愛に逃避してからはただ酔っていた。悲恋に終わりすべてをあきらめかけてからは大学院に学歴ロンダリングするという新たな目標があった。Twitterを始め東京というトポスに憧れた。だがまるで予定調和かのように引きこもりに戻ってしまった。奇々怪々な経験を経て幾分賢くも強くも狡くもなったと自分では思っていった。それがまったく老人が在りし日の思い出を語るように、何にもコミットメントすることなく朽ち果てていく想念に憑りつかれていたし、実際のところそうだったのだろう。

 

 ひもすがら恐怖にうち震えていた。自分の脳力の衰えを感じた。気怠さと苛立ちと焦り、そして欲望のみがそこにはあった。詳しくは書けないが、12月地元でトラブルを起こした。そうして初めて気づいた。僕は普段様々な物語を自らのうちに取り込み、悲嘆にくれ、奇天烈なふるまいをすることや、かぶくことにより、慰撫し、耐えられなくなると酒と薬に逃げ、暴力的言動で周囲を困らせるただの一凡夫に過ぎないのだと......

 

 東京に帰りたかった。失敗体験や苦いトラウマはたくさんあった。大学院に戻れるかどうかもわからなかった。資産も随分と減り就職も考えていたが、そもそも今の心身が耐え得るかはとてもではないが断言できなかった。だがしかし、それでも名古屋の実家で母とともに朽ち果てていくよりは、マシだと思った。東京のアパートには苦労して集めた、多種多様な蔵書があった。いつだって活路を開こうと燻ってる友人たちもいた。帰ろうと思った。それが何かもやり方さえわからないけど何かをしに行こうと思った。毎夜悪夢にうなされ疲れ果てて夕暮れに起きる逃げ腰の自分を鼓舞し続けた。

 

 そんなこんなで、ようやく東京に戻ってくることができた。相変わらず傍若無人でしかもグレードダウンした僕を心配し支えてくれる人は予想外に多かった。何ができるかはわからない。この辺鄙なアパートでまた引きこもりをこの4日間繰り返し続けている。それでもわざわざ顔を見に訪ねてきてくれる人たちがいる。マイナスからのリスタートの終着駅がどうなるか、今日も抑鬱と闘いながら、あれこれポンコツなりに考え続けている。去年の11月の予定の書いてあるホワイトボードには「生きろ!」と書きつけた。今日もほとんど何もできなかったが、とりあえず後悔だけはないよう全力で就寝しようと思う。