眠れない夜の随想

  「厭世さんのブログ記事は全部読みました」


  こんなことを言われたのは初めてで、ついついまたいつもの悪い癖が出た。「豚もおだてりゃ木に登る」僕は幾度木登りすれば気が済むのだろう。大した文量でないにしても、このブログの記事をすべて読もうだなんてよほどどうかしている。僕はいつだってあとから気づき、後悔する羽目になる。僕の読みづらい癖のある文体と、その曖昧でいい加減な筆致には、呆れかえるといった反応が正常だ。僕だからこそ、僕の連続性を確かめるために、たまには自分の書いた文章の読者になるが、時折その文章技巧の稚拙さと陳腐で一部グロテスクな内容に厭気が差すことが多い。


  陥穽だった。筒井康隆に着目していながら、これだけ「作者」と「読者」について考察していながら、どうしてこんな基礎中の基礎を見落としていたのか。やはりどうもまだアタマの調子がおかしいようである。「作者」は書く。「読者」は「作者」の書いた「テクスト」を読み、様々に解釈する。簡単に言えば、こうした作業をプロとして行うのが「文芸批評家」の本分であり、それを支える考証を、同じくプロとして行うのが「文学研究者」の主たる仕事だろう。書くまでもないことだが、「国語」の授業で作者の意図や、固定された解釈を、現代人はどれだけ選ばされ続けてきただろう。考えてみれば、カンタンにすぎる。「読者」の「テクスト」へのアプローチは多種多様(文学理論の入門書の目次を見てみるといい)に考えられ、それぞれ異なる。面倒なので詳述はしないが、「<読み>の正解を一つだと考えないこと」こそ、「文学」の蠱惑的な魅力であり、弁慶の泣き所であるとひとまず言えよう。「作者の意図」なんてものはまず分かり得ない(それこそ私たちが思考のすべてを完璧に伝達する手段がない上に、そんなものができれば私たちヒトは滅ぶ。)と言っていい。もういくらでも繰り返されてきた言説なので、自分のヘタクソな説明をここですることには吐き気が止まらないのだが、「厭世詩家と女性」によって書かれた文章から、<今ここ>で苦悩と不安に苛まれつつも呑気にあぐらをかいている(この叙述だって真実であるかどうか)この「僕」の実相を、そのままに見ることは誰にもできない。


  僕はエゴイストだ。僕以外に僕は何も信じてはいない。未だにホントウの意味での他者を見出し得ない。確かそんな旨の自殺旅行をするだとかいった雑な遺書をポツネンと残し、一泊二日で帰ってきた小心者の「厭ナントカ」(?)そんな奴もいたりいなかったり。そうしてその孤立した自己を、表象でなく(あり得ないことだが)、<わかってもらえる都合の良い存在>を求めさすらう阿呆が僕だったはずである。このブログの初めの方の記事には、絵空事であるが、僕の夢見たことが書いてある。それらが完全に達意できたと無意識に思い込み、ホイホイ甘い餌に釣られて、今回もまたトンチキなドタバタ劇を繰り広げた。


  「どうせ今回の件もブログにいつか書くのだろう」「10月下旬あたりじゃないか?」「いやネタがなくなったら書くに違いない」などと僕を馬鹿にしてくる良き友人たちがいるので、敢えて胸の内にしまっておいて、代わりにこんな雑駁な随想を見切り発車で書き出した。今は他にやりたいこともあるし。つまるところは、どうやったって、「個」が「個」である限り、ミスコミニュケーション・ディスコミュニケーションは、生じざるを得ない。「個の確立」にこだわる僕の第二のアポリアがこれだ。しかしながら、この問題はそう悲観することもない。「個」の特殊性は、「個」が「全体」へ完全に包摂されない限りは、あらゆる可能性の源泉となってくれるだろう。


  ものぐさスイッチが入ったので、そろそろこの駄文を締めにかかると、僕は自己において肝要な発見や反省をたびたび忘れる。どうもこのポンコツっぷりだけは直りそうにない。今日訪ねてきた元同居人の発言から引用するのが癪に障るが、やむを得まい。「孤立せよ・・・・・・!」(福本信行『無頼伝 涯』の箴言。最近読み返したにも関わらず、すっかりこの境地を、沈殿させていた。裏をかいてやれば「self help」、「help!」だなんて叫んでいる暇があったら、中村正直訳『西国立志編』でも読めば(だがとても読むのに骨が折れるので何か良い代替テクストはないものか......なにぶん自分の勉強のためでなければ読まなかった類いの本でもあるし......)、生きる気力も湧いてくるというものだ。なんでもいい。思考を柔軟に。ノウミソなんかスポンジであれ。すべてを牽強付会、我田引水、恣意的に結びつけちまえ! と、浅田彰『逃走論』チック(?)なロジックに収斂していってしまったわけだが、結局これを噛み砕き、三行にできず、相も変わらずまどろっこしいことばかり考えていたことが、今回の僕の敗北である。「否! まだ負けてはいない! 変化しないこと即ち「無」こそが真の敗北であり、これは絶対に必要なプログラムの一部なのだ!」 と、またテキトーにじい(示威/自慰)したところで、なにか良い美辞麗句が出てくればいいものだが、あいにく本日、未熟者であるからして、うーん、そうだなあ、「いのち短し恋せよヒト」(2018年風?アレンジ?)という具合にしておこうか。ところで、不意に招かれざる客は厭世ハウスにたくさん闖入してくるが、可及的火急的速やかに欲しい眠気は一向に訪わない。薬ももうない。いやはや。