上京してのち

  上京してからの様々は最早思い出したくないことばかりだし、今の僕はすっかり弱り切ってしまっている。その間の日常を記録した2代目厭世詩家と女性(@pkd_straysheep2)も永久凍結されてしまった。なので、もう朧となった端々、記憶を、内奥から呼び起こす端緒にするために、備忘録として簡潔に記す。


3月

  希望と不安に満ち満ちていた。長年の付き合いのフォロワーのオタクとルームシェアしていた。まあ一ヶ月を俟たずに奴が出て行ったんだが。そういえば奴は僕に13万借金があるのだが、何も言ってこない。金に頓着したくないので、今後も督促はしないことにする。彼の良心に委ねよう。

  ところで、こんなことを書くと、彼にまた怒られるし、面倒な堂々巡りの反駁がくるので適当に煙に巻こうと思うが、一応書く。表向きは彼が僕の生活能力の酷さに呆れて、出て行ったということになっている。しかし、僕の認識は異なっている。彼とは昔からよく口論もとい議論になる。人間、神、世界、存在、言葉、性、抽象的であれば何でもいい。彼は良く「お前は他人の話を聞かない。すぐ遮り、自分の話ばかりする」などと指弾してくるが、これは見当はずれで、単に彼のプライドの拠り所とする「頭の良さ」(僕としてはクソどうでもいい)に含まれる「頭の回転の速さ」と通常判断される、発話の数が僕の方が約4倍程度多いだけのことである。それをウダウダ悩み、ストレスを溜め、皮肉、当てこすり、罵詈雑言で攻撃してくるんだからたまったもんじゃない。僕も僕でぐうたら暮らし、彼の小言をいい加減にうっちゃってしまうから、互いにますます腹が立つ。というわけで、破綻は遅かれ早かれ別のパターンで訪れただろう。きっかけとなったのは、僕が酒と女と薬でバグり暴れた「厭世ハウス乱闘事件」なのだけれども。

  大学院も始まっていないというのに、この一ヶ月は特に消耗した。彼もまた。彼は今は別のフォロワーのシェアハウスに移り、順調(?)に生活しているようだ。毎日のようにTwitterで絡んでくるが適当にあしらっている。


4月

  特に書くこともない。疾風怒濤の3月を終え、幾分か大人になったつもりでいた。実は3月の女バグりは、関係各位に迷惑がかかるから詳述しないが、矢印がとんでもない数飛び交い、僕も(一方的に飛ばす方だが)竜巻でもみくちゃにされた。大学院は始まったが、僕としては珍しく順調なスタートが切れ、院内にも特に問題なく馴染むことができた。大学院というのは一種特殊なところで、奇人変人の見世物小屋なので、悪目立ちということが、良くも悪くもできない。個性は反転し没個性となる。しかしながら、新生活というのはいつもエナジーを消耗するもので、この頃処方薬のルネスタ睡眠導入剤)が海外輸入できることを知り、こいつに溺れてしまった。寝ると心が軽くなるので1ヶ月で購入分の3mg(処方される一日の最大量)の錠剤100錠がいつのまにか消えていた。クスリの一番厄介なところは、濫用すると耐性がつくことだ。これより決まった時間に寝られなくなり、今も自分に合った睡眠導入剤を見つけられず、不規則な生活を強いられとても後悔している。

  これは蛇足だがこの頃ホテヘルで淋病を移された。ある日、排尿時に白い膿(淋病だと黄色の場合もあるらしい)がドロッと出るようになり、尿道に痛みが走った。焦って泌尿器科に駆け込んだ。幸いにも症状は軽く1週間で根治した。ん? これ5月だっけ? まあいいや。


5月

  元同居人のオタクが出て行ってから、厭世ハウスには、部屋が一つ余っていた。もう散々怒られたし、僕の中でも少しは整理がついたので、やや事情を書くが、フォロワーの女の子が一人居候することになった。4月の終わり頃から3週間、誰にも知らせずに同棲していた。彼女は双極性2型(いわゆる躁鬱病の重い方)だった。希死念慮があり、ODは日常茶飯事だった。しかも酒を覚え危険な状態にあった。幾人か親しい人には告げたが、公(?)には初めて告白する。僕は間男だった。彼女との生活は3週間続いた。彼女は別の場所で、新生活を始めるために厭世ハウスを出た。笑顔で別れた。それが彼女を見た最期になった。7月の項に書く。


6月

  この辺りから記憶が混濁している。大学院は4、5月こそ張り切って勉強していたが、次第にポスト構造主義的な言語不安に陥り、苦しくなった。頭が一瞬間も休まらず、眠らない回遊魚のようだった。5月末に初めての演習発表を乗り切り、本来ならここから自信をつけられたはずだ。だが相も変わらず寂しかった。とにかく6月に僕の鬱病は悪化し始め、生活すらおぼつかずに、ただ恋愛だけを夢見ながら、学問という名の悪夢と奮戦していたと思う。色々なトラブルを巻き起こした気がするが、よく思い出せない。


7月

  終わりの月だった。すべてを投げ出した。終生この夏の虚脱感は忘れられないだろう。5月に生活を共にしたあの子が死んだ。正確には5月の下旬、厭世ハウスを出て一人暮らしを始めて3週間経った頃にあったことらしい。自殺だった。詳しいことはあまり知らない。僕は彼女の過去も本当も知らなかった。ただ僕と暮らした3週間だけを知っている。だから悲劇の主人公ぶる資格もないし、第一彼女はそんなことは望まないだろう。死について考えた。苟もこの時期の指導教授の演習発表の題材のタイトルが「死者たちの語り」だった。気がどうにかなりそうだった。僕の中で一応の弔いはした。なのでぐだぐだ彼女の思い出に浸っても仕方がない。墓は知らない。僕は無神論者で宗教は持っていないし、究極的には自分しか信じていない。だから誰にどう思われようがこれで良い。ぽっかり空いた大穴は今も埋められずにいるし、これからもそうだろう。


8月

  終わってもないのに振り返るのもおかしなことだが、凍結されたおかげで16日以前の記録がない。簡単にいこう。7月末の演習発表を投げた。原因は自殺したあの子を忘れるため、他の女の子にちょっかいをかけ、双方傷つけ合ったのが、ちょうどその時期と合致したからだ。上京からのことが積もり積もって、いや、むしろ24年間の僕の生きてきた人生のやり切れなさが積もり積もって、久々に希死念慮が僕に帰ってきた。笑ってしまうぐらい雑な遺書を書き、衝動的に家を出た。24になる8/11まで旅に出ようと思った。不幸にも(幸いにも?)、酷暑に、弱り切った心と身体は耐えきれずに、ビジネスホテルに駆け込み、一晩泊まって帰ってきてしまった。ついに東京からさえ出られなかった。別れ際に自殺した子がプレゼントしてくれた腕時計をはめていた。何度も何度も話しかけてみた。僕は自殺しようとしたことは初めてではなかったが、やりおおせたことはない。彼女がどんな気持ちで、どうやって死んでいったか。想像することしかできない。人と人とは決して分かり合えないし、言葉は僕らのやるせなさを分かち合うにはあまりに心許ない。僕の6月頃陥った厭世感は、こうして、真に僕の血肉となった。頭でわかるのとしみじみ感じ入ることは違う。だなんて、脳科学者にバカにされそうだが、文学者はこうであってもいい。


  そろそろ書き疲れたので締めよう。鬱病は悪化し、睡眠障害も酷いが、どうにかこうにか生きている。まだ牙は折れてはいない。もともといい加減に書こうとの思いつきで、スマホに打ち込み始めたものの、興が乗り長く書き過ぎた。推敲もろくすっぽしなかった。書かなかった大切な出来事もたくさんある。多分この文章を読み返せば僕の頭の中に蘇ってくるだろうから、まあいいとしよう。


  上京してのち、最大の収穫は「Let It Be」が刺さるようになったことだ。と書くとまたミーハーだの単純だのボロクソに貶されそうだが、言いたい奴には言わせておけばいい、それも含めて、今ここに在る。さて、これから先か。どうなることやら。気が重いや。